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噫無情(ああ、むじょう) 世界名作名訳シリーズNo.1, No.2
『噫無情(ああ、むじょう)』(前篇・後篇)
黒岩涙香訳(原作 ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」)
■定価 各2625円(税込) ■ISBN4-89984-060-8/ISBN4-89984-061-6

黒岩涙香訳《噫無情》を読む楽しさの半分は、日本語のおもしろさにある。
虚呂々々、動揺々々と書いて、きょろきょろ、どやどやと読ませる。漢字に全部ルビが振ってあるから、さまざまの芸当ができる。例えば、情死のふりがなは、しんぢう(心中)。登場人物は日本名である。刑事ジャヴェールは蛇兵太(じやびやうた)、悪党テナルディエは手鳴田(てなるだ)。コゼットは小雪でマリユスは守安(もりやす)。エポニーヌが疣子(いぼこ)でアゼルマが痣子(あざこ)、シャンマチウはなぜか馬十郎(うまじふらう)。人物を日本式に替えただけではない。後篇の市街戦の場面で、バリケードに最後まで残るのは原作では三十七人の共和派の青年だが、涙香はこれを一揆で討ち死にを覚悟した四十七人としている。百姓一揆や赤穂浪士のイメージと重ね合わせているのだ。
涙香の《噫無情》は、江戸期からの古典や漢籍、芝居や話芸の言葉、それに開化後に導入された西洋の概念語が綯(な)い交ぜになって明治後期の活力ある文体を生みだしている。戎瓦戎(ぢやん、ばるぢゃん)はこう啖呵を切る。「私(わた)しが小雪を貰ふと云ふのは、全く貰ふけ丈(だ)けの事、貰ふに止(とヾ)まるのだ、私しの名前も住居(すまゐ)も聞かせる事は出来ぬ、今貰へば二度と再びお前さんに尋ねて来られては成(な)らぬ、是(こ)れ限(ぎ)り音信(いんしん)不通と云ふ約束で貰ふのだ、何も長い短いを云ふ事は無い、否(いや)なら否と断り成さい。」
本書のもう一つの魅力は涙香が再編した物語のおもしろさにある。原作の冒頭にはジャン・ヴァルジャンの改心のきっかけとなるミリエル司教についての話があるが、それだけで本書の一〇〇ページ以上の分量になってしまう。涙香はこうした部分を大幅にカットし全体を逐語訳の場合の五分の一に圧縮した。物語の本筋だけを細部の描写を保ったまま一直線に書き進める。そこから生み出される歯切れのよい語り口とスピード感はこたえられない。
涙香は《レ・ミゼラブル》という大河小説から、戎瓦戎、蛇兵太、手鳴田という三人の個性的な男の絡み合いと対決をストーリーの主軸として浮かび上がらせている。これに後篇で小雪と守安の恋という副旋律が加わる。注目すべきは涙香によって再創造された手鳴田の人物像である。戎瓦戎にまつわるすべての真相がこの悪党によって明らかにされていく最後の場面の訳文は冴えわたり、涙香が編み直したこの物語を、手に汗握る緊張度を持続したまま終結にまで導く。
《噫無情》は、涙香(本名黒岩周六)が主宰する日刊紙『萬(よろず)朝報』に明治三十五年(一九〇二)十月八日から三十六年八月二十二日にわたって連載され、単行本は三十九年、前後篇に分けて東京・扶桑堂から出版された。冒頭ページに現れる地名がダイン (ディーニュ)、カン(カンヌ)、あるいはパリ市内の地名がセイン河(セーヌ川)、レキセンブル公園(リュクサンブール公園)、サン、デニス(サン・ドニ)となっていることから分かるように英訳をもとにしたと考えられる。
《レ・ミゼラブル》の完訳はこのあと小説家の豊島與志雄によって行われ、《噫無情》の新聞連載から十六年後、大正七、八年に新潮社から刊行された(昭和十二年に岩波文庫に収録)。それでは涙香訳は原作の抄訳やダイジェスト版といったものであろうか。そうではない、《噫無情》はこんにちの言葉でいえば《レ・ミゼラブル》の明治日本における“リメイク版”なのである。
(村瀬巷宇)


【登場人物対照表】

<噫無情>……………………………………………<レ・ミゼラブル>
戎瓦戎(ぢやん、ばるぢやん)……………………ジャン・ヴァルジャン
彌里耳(みりえる)/僧正…………………………ミリエル
華子(はなこ)………………………………………ファンチーヌ
小雪(こゆき)/華子の娘…………………………コゼット
手鳴田(てなるだ)/旅館主人……………………テナルディエ
疣子(いぼこ)/手鳴田の娘………………………エポニーヌ
痣子(あざこ)/手鳴田の娘………………………アゼルマ
三郎(さぶらう)/手鳴田の息子…………………ガヴローシュ
門八(もんぱち)/手鳴田の手下…………………モンパルナス
斑井(まだらゐ)/市長……………………………マドレーヌ
蛇兵太(じやびやうた)/警察部長………………ジャヴェール
星部(ほしべ)/馭者の老人………………………フォーシュルヴァン
馬十郎(うまじふらう)/被告……………………シャンマチウ
本田圓(ほんだまるし)/士官……………………ポンメルシー
守安(もりやす)/本田圓の息子…………………マリユス
眞部(まなべ)/守安の親しい老人………………マブーフ
桐野(きりの)/守安の祖父………………………ジルノルマン
エンジラ/一揆軍の首領……………………………アンジョルラス

噫無情(ああ、むじょう)
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