世界名作名訳シリーズNo.5, No.6
巖窟王(がんくつおう)(上篇・下篇)
黒岩涙香 訳(原作 アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」)
■定価 各3150円(税込) ■ISBN4-89984-067-5/ISBN4-89984-068-3
フランスの大衆小説作家アレクサンドル・デュマ(大デュマ)の長編《モンテ・クリスト伯》の抄訳が初めて日本に紹介されたのは明治二十年、関直彦による『西洋復讐奇譚(きたん)』というものであった。
日刊紙「萬(よろず)朝報」の社主だった黒岩涙香が英訳本から重訳し《巖窟王》という題で新聞連載を始めたのは明治三十四年(一九〇一)三月十八日である。翌年六月十四日にこれが終結すると次にヴィクトル・ユゴーの《レ・ミゼラブル》を《噫無情》の名で連載した。この二つの翻訳小説は戦前広く愛読され、現在でも少年少女向き文学全集では『巌窟王』『ああ無情』のタイトルが使われている。
デュマの原作も新聞小説として登場したもので一八四四─四五年、パリの「討論(デバ)」という新聞に連載された。これに前後してデュマは《三銃士》と《王妃マルゴ》を発表し、《椿姫》を書いた同姓同名の息子(小デュマ)らも加わって、ストーリーの面白さを前面に打ち出した読み物を広範な読者に多量に提供した。
デュマとユゴーはともに一八〇二年生まれで、二人が十三歳のとき体験したナポレオンの再起、つまりエルバ島脱出からワーテルロー敗戦までの百日天下と呼ばれる大事件が、《モンテ・クリスト伯》と《レ・ミゼラブル》を始動させる共通の動機となっている。
《巖窟王》の前半には、港町マルセイユのスペイン人集落、イタリアのトスカーナ領島嶼(とうしょ)やジェノヴァ港、さらにギリシャやトルコやアフリカまで、地中海のコスモポリタン世界が闊達に描かれ、−−冤罪による地下牢への幽閉という主人公の悲惨とはうらはらに−−痛快冒険小説らしい背景をつくっている。
後半で舞台がパリに移ってからは、当初の登場人物に次世代の青年たちが加わるため物語はやや複雑になる。しかしその一筋一筋は主人公こと團(だん)友太郎(ともたらう)ダンテスによる復讐の完遂という一点に収斂していく。船会社の会計から大銀行家になった段倉(だんくら)、漁師から陸軍中将になった次郎(じらう)、検事補から大検事になった蛭峰(ひるみね)、というかつて主人公を陥れた三人の悪徳が徹底的に暴かれ、その復讐劇を通して革命後の流動的なフランス社会で名士(セレブリティ)に成り上がっていく者たちの後ろ暗い人生が次々と明るみに出されていく。
黒岩涙香の文章は全編を通じ渋滞することなく進んで行く。政治志向のジャーナリストであった涙香は、登場人物たちが言葉で応酬する場面で熟達の筆致を示す。終幕に近い〈辨太郎(べんたろう)裁判〉は法廷という厳粛な場で正義が問答される涙香好みの格好の題材である。裁かれる側の被告が次々と真相を暴いていくという意外な展開を、涙香は抑制のきいた端正な文体で描き、《噫無情》における〈馬十郎(うまじふらう)裁判〉と好一対の《巖窟王》最大の見せ場をつくっている。
《モンテ・クリスト伯》の原語からの完訳は戦前、山内(やまのうち)義雄や大宅壮一によって進められ、戦後にも数人の訳者による翻訳が出た。その一人である新庄嘉章は、デュマの作品を「考えさせたり夢みさせたりするのではなく、ページをめくらせる」と表現した評を紹介している。ユゴーの《レ・ミゼラブル》にみられたような社会思想的主張や文学的修辞はここにはあまりない。その代わり、読み出したら止められない抜群の面白さが満ち満ちている。
原稿用紙四六〇〇枚に及ぶ山内訳(岩波文庫一九五七)に比べると涙香の《巖窟王》は三分の一の分量であるが、「ページをめくらせる」という点で原作に忠実な翻訳だということができよう。
(村瀬巷宇)
登場人物対照表【上篇】
<巖窟王> |
<モンテ・クリスト伯> |
團友太郎(だんともたろう) 主人公 水夫 |
ダンテス |
森江(もりえ) 船会社の社主 |
モレル |
段倉(だんくら) 船会社の会計係 |
ダングラール |
お露(つゆ) 友太郎の許婚 |
メルセデス |
毛太郎次(けたらうじ) 友太郎の隣人 |
カドルッス |
次郎(じらう) お露の従兄 |
フェルナン |
蛭峰(ひるみね) 検事補 |
ヴィルフォール |
梁谷法師(はりやほふし) 土牢の囚人 |
ファリア司祭 |
毛脛安雄(けすねやすを) 若い男爵 |
フランツ・ダピネー |
野西武之助(のにしたけのすけ) 若い子爵 |
アルベール・ド・モルセール |
眞太郎(しんたらう) 森江の息子 |
マクシミリヤン |
緑(みどり) 森江の娘 |
ジュリー |
春田路(はるたぢ) コルシカ出身の家扶 |
ベルツッチオ |
鞆繪姫(ともゑひめ) ギリシャの皇女 |
エデ |
登場人物対照表【下篇】
<巖窟王> |
<モンテ・クリスト伯> |
巖窟島伯爵(いはやじまはくしやく) 主人公 |
モンテ・クリスト伯爵 |
野西次郎(のにしじらう) 陸軍中将 子爵 |
フェルナン・ド・モルセール(伯爵) |
露子(つゆこ) 野西次郎の妻 |
メルセデス |
野西武之助(のにしたけのすけ) 野西次郎の息子 |
アルベール・ド・モルセール(子爵) |
段倉(だんくら) 銀行家 男爵 |
ダングラール |
夕蝉(ゆふせみ) 段倉の娘 |
ユージェニー |
蛭峰(ひるみね) 大検事 |
ヴィルフォール |
野々内(のゝうち) 蛭峰の父 |
ノワルチエ |
華子(はなこ) 蛭峰の娘 |
ヴァランチーヌ |
森江眞太郎(もりえしんたらう)大尉 |
アルベール・ド・モルセール |
眞太郎(しんたらう) 森江の息子 |
マクシミリヤン・モレル |
毛太郎次(けたらうじ) 宿屋の主人 |
カドルッス |
春田路(はるたぢ) 家扶 |
ベルツッチオ |
皮春永太郎(かははるえいたらう) 小侯爵 |
アンドレア・カヴァルカンティ(公爵) |
鞆繪姫(ともゑひめ) ギリシャの皇女 |
エデ |
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